Ramblin'g Blues

Scrapper Blackwell


2003-12-11 THU.


かって、この BLUES 日記がホントに Blues 化した 7 月の初め、Carey Bell に続いて第二弾として登場したのが Leroy Carr の How Long-How Long Blues でございました。当時はまだ人名・地名などもカタカナ表記で、記述もさほどクドくなく、かなりアッサリした仕上がりだったのよね。

それが、自分で調べる身になれば判りますが、特にアメリカの地名なんてカタカナで書いてあったら、Yahoo USA でダイレクトに検索できないんですよ。ま、この日記が「日本の」バンドについて書いてるんだったらカタカナ表記でかまわないんですが、コトはブルースですからねえ。特に、ドコで生まれた、ってのはダイジでしょ。そんな時、地名がカタカナだとエラい手間がかかるんですわ、正しいスペルに辿りつくまでに。
それと、「日本で通用している読み」をカタカナで書いちゃうと、さらにそのマチガイに「荷担」してるよでイヤなんざんす。ホントは「ラジオ」ってのがいっちゃん抵抗あります。でも「レィディオ」なんて書いちゃうと、それはそれで「ナニこいつ?」って思われちゃいますからねえ。

おっと、思い出にひたってる場合じゃなかった。今日のブルースはその Leroy Carr で、存在感のあるギターを聴かせてくれた Scrapper Blackwell 個人のブルースでございます。
ソロで吹き込んだこの曲では、そのギターも柔らかくかつゆったりとした「いい味」をだしております。と言っても Leroy Carr とやってんのが「好きじゃない」って意味じゃありません。あっちの才気走ったキラメクよなフレーズもまことスバラシいのではございますが、こちらではもっとリラックスして、歌うことも楽しんでいるような気がいたします(って本人に確かめたワケじゃないんで、そんな気がするだけですが)。
この曲は、1931年11月24日、Indiana 州 Richmond(そ!先日の Kitchen Range Blues / William Harris ─12月 5 日付─もそこで 1928 年に吹き込みをしておりましたね)での録音で、6 曲吹き込んだ中の最初のナンバーでございます(他は Blue day blues、Down south blues、Sneaking blues、Hard time blues、Back door blues )。

Francis Hillman "Scrapper" Blackwell は South Carolina 州 Syracuse で、Payton と Elizabeth Blackwell の間に 16 人(!)の子供の一人として 1903年の 2 月に生まれています。
本人はチェロキーの血が入っていると主張しておりましたが、彼の写真はある程度、それを裏付けている、とする声もあります。え?ワタシ?そーですねえ、まっその〜、そんなよーな気もしないではない、と言えないことも無くは無いかもしれない⋯?
彼の父はフィドルのプレイヤーだったようですが、彼は自分で葉巻の箱と木っ端、それに針金とでギターを作り上げ、弾いていたといいます。また、場合によってはピアノも「かなり」弾けたそうですが、その前にどうやら一家は、彼が人生の大半を過ごすことになった Indianapolis に移っていたようです。
ただ、彼の場合も、その早い時期についてはあまり詳しいことは判っておらず、特に彼を再発見した、とされる Duncan Scheidt の表現によれば、彼は「多少内向的、時々不気嫌。」とのことで、あまり「話し好き」とは言えず、自分のことを語りたがらなかったことにも起因しているものと思われます。

彼のギターについて前述の Willie Harris と、Blind Lemon Jefferson、そしてかって彼の家族がいた Syracuse あたりで聴いていた「かもしれない」 East Coast Piedmont スタイルの残滓を指摘するむきもありますが、そのヘンのことは聴く側の主観(ならびに嗜好)が大きく左右しますので、安易な推論はヤメときましょ。
さて、10代ですでに彼はパートタイムのミュージシャンとして働き始めていて時にはシカゴにまで出向いていたようですが、だんだんと「気難しい」面が前面に出て来て、一緒に「やりづらい」ミュージシャンだったとのことです。
もちろん、それにも例外があり、それがあの Leroy Carr とのパートナーシップでした。
Scrapper Blackwell が Leroy Carr と出会ったのは 1920 年代の中頃、 Indianapolis でだったそうですが、以来この二人は時代を代表するような名コンビとしておよそ 1928 年から 1935 年にかけて 100 曲ほどを残しています。
このデュオが訪れた土地も中西部から南部にかけて、Louisville や St.Louis、Cincinnati に Nashville など、広範囲にわたり、大きなプレゼンスを獲得した、といっていいでしょう。
ただ、Scrapper Blackwell は Leroy Carr に出会って、Vocalion のために 1928 年の 7 月にレコーディングをしたことに始まり、そのコンビネーションが高く評価されるようになるまでは自分のことをプロフェッショナルなミュージシャンとは捉えていなかったようで(事実、1920 年代の彼はすでに酒の密造で「身を立てて」いたよーですからね)さほど自分の才能というものを重視してはいなかったようです。
あるいは本業(?)の「 Moonshiner 」をほっとけなかったからなのか、Indianpolis 以外でのレコーディングにはあまり乗り気ではなかったと言います。これが録音された Richmond も同じ Indiana 州だし。

さて、彼自身のレコーディングは 1928 年 6 月16日の Kokomo blues と Penal farm blues が最初、とされています(ただし、この時期については異説もあり、6 月19日に録音された How Long How Long Blues によって評価されてから、つまり 1928 年の終り近く、とするものです) 。
同年 8 月15日には Mr. Scrappers blues、Down and out blues、Trouble blues - part 1、Trouble blues - part 2 の 4 曲をレコーディング、さらに翌 1929 年の 2 月15日には Non-skid tread を吹き込み。さらに 3 月19日には Be-da-da-bum、1930年 2 月 4 日には Springtime blues を、そして 1931年11月24日が今日の「 Ramblin'g blues 」他の全 6 曲。
1934 年 2 月21日には Morning mail blues と Blues that make me cry、1935 年 2 月25日には D blues と A blues。

しかし、この 1935 年の 4 月29日にはパートナー、Leroy Carr が主として酒に原因がある、とも言われた急性腎炎(あるいは肝硬変?)で死亡してしまいます。
その後、7 月 7 日のセッションでは My old pal blues にサブ・タイトルとして「 Dedicated to the memory of Leroy Carr 」としてありました。この時は他に、Bad liquor blues、Alley Sally blues、No good woman blues もレコーディング。翌日にも Motherless boy blues、Wayback blues、Texas stomp の 3 曲を吹き込んでいます。
最初の吹き込みの Kokomo blues が Kokomo Arnold を経て、Robert Johnson の Sweet Home Chicago にまで発展して行った⋯てなハナシは置いといて、と。

Leroy Carr 亡き後、Scrapper Blackwell は音楽にまつわる意欲を失ってしまったかのようで、またもやコツコツと(?)密造酒造りに戻ったようですが、禁酒法の撤廃により、その業務も以前ほど実り(?)多いものでは無くなってたと思うんですがねえ。ま、それはともかく、彼の消息は音楽業界からカンゼンに消失してしまいます。1959 年までは、ね。
ブルース・ファンの Duncan Scheidt によって見出されたとき、彼はもう 15 年以上も演奏していなかったことになります。Duncan Scheidt は彼が演奏を再開できるように尽力し、それは Document の CD として結実しています。

これによって、再び世に出るか、と思われた矢先の 1962 年10月 7 日、彼は Indianapolis の裏通りで撃たれ、落命しています。それは、Prestige / Bluesville のために LP 吹き込みを終えて帰るところだった、とも伝えられていますが、この事件の真相はいまだにナゾのままで(当初、警察は、隣人を殺人の嫌疑で拘束したらしいのですが)未解決のまま歴史の闇に溶け込んで行ってしまいました。
Indianapolis の New Crown Cemetery に埋葬されています・・・

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