Grandpas Spell

Jelly Roll Morton


2004-08-24 TUE.


昨日の Kitchen Man / Valerie Wellington のとこで Dixieland が出てきましたので、そのついで(?)っちゅうことで、やや Jazz 寄りっちゅうか、vaudeville 系の、と言いたいよな気もする、この Jelly Roll Morton の小気味いいピアノを採り上げるといたしましょう。
ワタクシのセレクトとしては珍しい、まったく「歌無し」のインストでございます。

「爺ちゃんのおまじない」(呪い、っちゅうことは無いと思うんだけど)ってゆう変わったタイトルですが、曲はこれまた、もろ Tom & Jerry に出てきそうな、ストラット調(でいいんだっけ?⋯こゆ Jazz 系の用語は正しく把握してるとは言えないかも?ヒデキちゃんの「ジジー・ストラット⋯じゃなかった、ズドラッド」には笑いましたが)のピコピコしたリズムが、ニューオーリンズの紅灯街の賑わいを思わせて、なんだかウキウキしてまいります。
左手のリズムなんてそのままチューバで上手く乗りそうですよ。

1923 年 7 月18日、Indiana 州 Richmond の Gennett Records* のスタジオで録音され、Gennett 5218-A(カップリングは Kansas City Stomp )としてリリースされました。

*Gennett Records ─ 1872 年 Indiana 州の Wayne 郡庁舎がある街 Richmond 市に流れついたピアノの職人が、その翌年に最初の一台を送り出しました。
当時の Richmond は人口およそ 10,000 人ほどで、この新しい「ピアノ製造業者」は当初、様々な名称で呼ばれていたようですが、1878 年に James と Benjamin の二人の Starr 氏の出資で the Starr Piano Co. を設立しています。
製造には傍を流れる Whitewater River の水力が利用されました。
Gennett 一族は 1893 年にこの会社の経営に参加しています。
同社のピアノは Chicago での展示会で認められ、それを契機として、Benjamin Starr を社長に、Henry Gennett を財務担当重役に、という体制を整え、1906 年にはすでに 600 人の従業員を抱えるまでになっています。
1916 年には蓄音器とレコード部門のために 6 階建てのビルを建造し 1917 年には the Starr Piano, Phonograph そして Gennett Records が発足しました。
1920 年代には放送にも進出しています。
Starr Piano では 1928 年に 15,000 台のピアノと、手巻き動力の蓄音器 3,500 台を売るほどになっており、同年の Gennett のマスターに加わった音源は実に 1,250 と、Victor の 1,900 にかなり迫るものでした。また、列車の通過によって度々レコーディングがストップされるため、Starr 社の敷地内で南端に移転しています(その日付は不明)。
1916 年から 1934 年にかけて Gennett Recording Service の the Richmond studio ではブルース、ジャズ、カントリー、他のエスニック系など膨大な数のレコーディングが行われました( 1927 年の 2 月以降の電気的吹き込みを含みます。同社は地元のピアノ工場の敷地内と、それとは別に New York にも録音スタジオを持っており、その自前のスタジオの他、借りたスタジオで録ったものも含め、New York 録音のほうはかなりの高水準の製品となったのですが、Richmond で録音した方はあまり音が良くなかったようで、一部の資料では20年ほど前のレヴェル、とまで「酷評」されております。今日の Jelly Roll Morton は、その音が悪い方の録音ざます)。
有名なものとしては 1922 年の the Friars Society Orchestra(後の the New Orleans Rhythm Kings )や、今日の Jelly Roll Morton、King Oliver's Creole Jazz Band、Louis Armstrong、Lil Hardin。
1924 年、 Bix Beiderbecke、 the Wolverines、 Bix and his Rhythm Jugglers( featuring Tommy Dorsey )、Hoagy Carmichael(の「Star Dust 」の最初のヴァージョン!)⋯そして、1925 年あたりからは Blind Lemon Jefferson や Charlie Patton、そして Big Bill Broonzy などのブルースも吹き込まれています。
しかし「大恐慌」により、1929 年には 75,000,000 ドルだったレコード業界の市場は 1930 年には 18,000,000 ドル、1931 年にはついに 5,500,000 ドルにまで縮小してしまいました。ここで Gennett をはじめとする小レーベルは業界から姿を消してしまうことになります。


さて、Jelly Roll Morton こと Ferdinand Joseph Lamonthe は、1890 年10月20日に New Orleans で生まれています。
父は Edward J. Lamonthe、母は Louise Monett(または Lemott あるいは Monett という教区記録もあり、多少の混乱があります)で、どうやら正式な婚姻によらない「子」だったようで⋯
生まれてからおよそ四年間は Perdido Street 141 & half の実父の家で暮らしていました。ところが母の Louise Monett は 1894 年 2 月 5 日に William Mouton という、父とは別な男性と結婚してしまいます(ちなみにこの時の婚姻届け出に、新婦はちゃんと自分の名前を署名していますが、新郎は「X」印だけで、おそらく文字を書けなかったのではないでしょうか?)。
ま、それはともかく、この結婚によって彼は実父と別れ、Frenchmen Street 1443 の継父である William Mouton の一家と暮らし始めました。
しかし 1901 年、継父の姓である Mouton を名乗っていた彼はその家を出て、South Robertson Street 2706 にいた名付け親だった Laura Hunter と Eulalie Hecaud と暮らすようになります。Laura Hunter は当時 36 才で 9 人の子持ち!

やがて彼はピアノを学び始めるのですが、先生は Mrs. Moment だった、と彼は後に語っていますが、事実 Mrs. Rachel D. Moment という女性が当時 South Franklin Street 3231 に居住していたことが住民台帳で確認されています。また、もっと専門的な指導を 1904 年の St. Louis Exposition で、ピアノ演奏部門で優勝した、とされる Alfred Wilson から受けました。

1906 年 5 月24日に、母の Louise Mouton が僅か35才の若さで結核のため死亡しています。
1908 年からの彼は南部諸州を回って歩くミンストレルズ・ショー、Billy Kersand's Minstrels や Fred Barrasso and McCabe's Troubadours の一員として各地を巡り、そこでは Clarence Williams や Brockie Johnny、Frazier Davis、Frank Rachel、George W. Thomas、Porter King、Tony Jackson、John Spikes、Benjamin (Reb) Spikes、Benson Moore、Baby Seals、Fred Washington、Prof. W. Roach、Ver Adams、Sid Isles、Jim Mills、Chilli Jim、Curtis Mosby、Butler May ( String Beans ) に Sammy Davis などとの交流を持ったようです。
当時の彼の出番では Morton & Morton というパッケージで、Rosa(あるいは Rosie )という女性とカップルでセットとなっていたようです。
およそ 1910 年代の半ばあたりまでを、そのようなミンストレル中心の生活で送っていたようですが、1917 年からはウエスト・コーストに移り、そちらで演奏を始めますが、それ以降は Rosa(あるいは Rosie )の名前が出てきてないんですねえ。ま、いいんですが。
1910 年代末にはすでに San Francisco では「名士」といってよい有名人となっていた Jelly Roll Morton は、Los Angeles の Paradise Garden で Jelly Roll's Famous Creole Band としてトップにランキングされるほどになっています。それ以前は紅灯街でピアノを弾くかたわら、スゴ腕のギャンブラー、いえいえ、イカサマ賭博師で暮らしてた、なんて言いますから、エラい違い。

そして 1922 年からはウエスト・コーストを離れ、Chicago に出て来ます。
彼のバンド、Red Hot Peppers でのレコーディングは、1923 年12月13日から翌年のはじめにかけて行われていますが、個人としての録音はそれに先立つ 1923 年 7 月17日、Indiana 州 Richmond の Gennett Records で行われています。
そ、本日の Grandpas Spell が18日ですから、その前の日なんですねえ。

Chicago での彼の録音には数多くの New Orleans のミュージシャンが関わっています。
Kid Ory、Barney Bigard、Johnny Dodds、Johnny St. Cyr に Baby Dodds など・・・
1928 年には New York に移り、そこで 1930 年まで Victor に吹き込んでいるのですが、面白いのは、New York でも「別な」 the Red Hot Peppers を結成してるんですねえ。
そこには Bubber Miley や Zutty Singleton がいた、とありますが、ズージャに暗いワタクシとしましては、ここらが身の引きどころ(?)でございましょ。いちおー今日の曲のレコーディングのとこまではじゅーぶんに行ったことだし。

たぶんジャズからの視点でこの人を見たらまた、かなり違う人物像が描かれることになるのかもしれませんね。
その後もまた西海岸に戻ったりもしているのですが、1941 年 7 月10日、Los Angeles General Hospital で死亡しました。具体的な死因については言及されておりません。

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